第19回 2014.11.29
低地遺跡からみた関東地方における古墳時代への変革発行元: 発行:福田 聖 発売:六一書房 2014/09 刊行
評者:及川 良彦 (東京都埋蔵文化財センター)
低地遺跡からみた関東地方における古墳時代への変革
著書:福田 聖 著
発行元: 発行:福田 聖 発売:六一書房
出版日:2014/09
価格:¥4,400(税込)
目次第1章 はじめに
第1節 古墳時代研究の新たな視点と研究方法
第2節 方形周溝墓と周溝持建物認定の基準
第2章 荒川低地南部の低地遺跡
第1節 旧入間川流域
第2節 三ツ和遺跡
第3節 鍛冶谷・新田口遺跡
第3章 荒川低地北部の低地遺跡
第1節 鴨川・入間川・市野川流域
第2節 元宿遺跡
第3節 荒川低地北端・笠原低地・熊谷低地
第4章 妻沼低地・加須低地の低地遺跡
第1節 妻沼低地南部
第2節 妻沼低地西部・志戸川扇状地・女堀川扇状地
第3節 加須低地
第5章 東京低地の低地遺跡
第1節 東京低地東部
第2節 旧入間川右岸
第3節 豊島馬場遺跡
第6章 周溝の性格と機能
第1節 方形周溝墓と「周溝」の覆土・出土状況(1)
第2節 方形周溝墓と「周溝」の覆土・出土状況(2)
第3節 関東地方における「周溝」研究の経緯と課題
第4節 「周溝」と「周溝持建物」の様相
第5節 周溝区画内の建物形式
第6節 周溝持壁立式平地建物の性格
第7節 周溝持建物を建てた人々
第8節 建物跡ではない「周溝」
第9節 小 結
第7章 低地遺跡から見た古墳時代への変革
第1節 周溝持建物の地域差と関東地方への導入の意義
第2節 結 論
第1章 第1節1では、古墳時代研究のなかでも、その研究の中心が「古墳」そのもの、あるいは「古墳」を作る側の歴史を明らかにしようとする傾向があるのに対し、福田氏はそのほか大多数を占める一般社会構成員の歴史を知ろうとする内容になっていないと批判する。そして、支配する側、支配される側、あるいは中央と地方といった二項対立の枠組みではなく、その枠組みを外した研究が望まれるとする。そしてまず、地域における古墳時代像を描くために、各地における古墳時代初頭の文化要素(集落・墳墓といった社会制度から土器まで)に関する具体的な検討の「総合化」が必要とする。その中でも、こうした文化要素の中で具体的な検討の一つとして、「低地遺跡」の「周溝持建物」を取り上げる。
福田氏は関東地方において、古墳時代開始期の最も大きな特徴は、本論で取り上げる「周溝持建物」が建物形式として新たに採用され、それを中心とした大規模集落が広く関東平野全体に展開される点にあるとする。古墳時代の幕開けに際して、あまり着目されてこなかったこの点を検討することにより、関東地方における古墳時代開始期の変革が、どのように行われたか、当時の社会の様相はいかなる状況であったかを明らかにすることが、本書の主眼とする。
その方針は、第1節2において述べられる。まず、弥生時代と比較した大きな変革は、外来系土器に多大な影響を受けた土器作り、碧玉製の玉作り、ガラス玉生産、井戸の造営などをあげる。こうした要素は、低地遺跡において顕著に認められるとする。つまり、弥生時代に比較して、低地への大規模な遺跡の展開が大きな特徴であるとする。そしてその中でも特に、関東地方の低地に展開する遺跡に特徴的に認められる、「周溝持建物」は弥生時代にまで認められなかった建物形式の採用として大きく評価する。
一方、関東地方の「低地遺跡の周溝墓」とされてきたものの多くが、集落を構成するものであり、誤認であるという飯島義男氏や評者の主張に端を発し、その後の福田氏や長瀬出氏の再検討にもかかわらず、いまだに一般化されているとは言えない現状であるという。福田氏はこの現状を放置することなく、建物の施設として明らかにしようとする。加えて外来系の土器、玉類、木製品に注目し、これらの組み合わせに注目する。さらに台地性の集落と低地性の遺跡についての比較を通じその差異を示すとともに、両者が補完関係で存在し、新たな古墳時代への幕開けとなると考える。そして、「低地遺跡」の検討を通じ、古墳時代社会への変革の様相を明らかにし、古墳時代における新しい社会像を描くことを目的としている。
第2節では、前著『方形周溝墓の再発見』において「周溝墓」と「周溝を有する建物」についての検討から、両者を弁別するための「目安」を設定していたが、本論ではこれを「基準」とする。この「基準」をもとに、多様な様相の「周溝」を少しずつ解体していく。
第2章〜5章では、この作業が対象とした地域ごとに行われるが、ここでは省略する。
第6章 は福田氏が述べる、「総合的な判断」が実践され、考察される章である。
まず、第1節と第2節では、低地の「周溝」の中から、低地の「方形周溝墓」を分離する。第3節では方形周溝墓と「周溝」の研究史を整理し、第1段階から3段階の3つの時期に限り、方形周溝墓の発見以後、方形周溝墓と「周溝」がどのように認識され、また誤認されてきたかをまとめ、その課題を述べる。
第4節では、墓以外の「周溝」について分類・整理し、「周溝」と「周溝持建物」の様相をまとめる。そして、「基準」とした各手続を経て、「周溝」とした中から、まず墓としての周溝墓を分離し、次に残された「周溝」の中から「周溝持建物」を分離し、最後に残された「周溝」の各要素を検討した結果、それは墓ではなく建物構造の一部であるとしたのである。一つ問題とされていた、「周溝」の規模の大小も、周溝持建物の中に、「周溝持竪穴住居」と「周溝持掘立柱建物」があることにより理解が可能であると考える。
これを受けて、第5節では「周溝」に区画された内部にどのような構造の建物跡が建っていたかを検討する。台地上の集落の柱穴と低地の周溝持建物の比較検討から、福田氏は周溝持建物には、伏屋式竪穴建物と伏屋式平地建物、1×2間の高床の掘立柱建物、壁立式平地建物という四種類があると結論する。こうして、懸案であった、研究姿勢の問題、周溝区画内に何らの施設も認められないという問題は、ひとまず解決したと宣言する。
第6節では、前節で想定した「周溝持壁立式平地建物」について、その性格を考察し、「周溝持壁立式建物」は倉庫ではなく、居住施設としての住居と考えるのが最も適切であるとする。次に、「周溝」覆土の形成過程を検討し「周溝」の使用期間の分析を行うが、この部分に関しては、筆者は文意をくみ取ることができない。福田氏はこの節の結論として、「周溝持建物」は、短期間使用され、放棄されたと考えられる。逆に群馬県のしっかりした竪穴を持つ例は、より定住的な場合と考えられる。」とする。
第7節においては、「周溝持建物」を建てた人々に考察を巡らす。まず、同じ遺跡内に周溝を有する建物と周溝をもたない建物がある現象をどのように理解するか考える。次に、周溝の存在理由を考える。周溝の存在は、排水・除湿といった実用的な理由ではなく、「周溝持建物」という新たな建物形式が導入されたことを示すとし、排水説を批判する。つまり、弥生時代終末に外来系土器が新たに登場するのと同様に、周溝持建物を外来系建物と理解し、土器の「搬入」と「模倣」と同様の検討が必要だと強調する。さらに、関東地方の中でも、前橋台地と荒川・中川低地の「周溝持建物」では構造が異なり、地域性が認められ、加えて、一つの集落の中であるいは遺跡ごとに建物形式が異なる点も問題とする。
第8節では「方形周溝墓」として分離された中に、大型ながら方形周溝墓とするには躊躇する、住居でも墓でもない第3の「周溝」の存在を指摘する。「周溝」の一部には、こうしたある一定の範囲を区画する施設の可能性についても考慮すべきとする。
第9節では、本章で検討してきた結果、関東地方の古墳時代前期の低地遺跡は、方形周溝墓、区画施設である方形周溝、竪穴建物、掘立柱建物、竪穴建物の周溝、高床の掘立柱建物の周溝、小規模な平地建物の壁周溝、平地建物の外周溝、井戸跡、溝、土壙など各種の遺構からなるとする。各集落ではこうした遺構が様々な組み合わせによって展開しているという。こうした様々な建物からなる景観をイメージすることの必要性を説く。
第7章 この章では、弥生時代までごく一部でしかなかった「周溝持建物」という建物形式が、関東地方一円で採用されるようになった歴史的意義について考察する。第1節では、この建物形式の導入により、一変する事態となった集落景観・集落構成に加え、異なる建物形式で構成される集落間の関係こそが、関東地方の古墳時代開始期の社会の様相を反映しているとする。
第2節では、古墳時代開始期の関東地方の社会が、首長の登場を要請し、その首長がいかにして社会構造を、自身を支えるシステムに変容させたかを考察し、結論とする。
福田氏は男女の分業論と出自集団論を分析に導入し、遺物・遺構論を展開する。そして、こうして導き出された、土器を中心とした二つの様相、集落の建物形式にみる三つの様相、さらに両者を融合させた、出自集団構成による男女の組み合わせによる集落構成仮説をもとに、次にどのような集落の性格を反映しているかについて検討する。
まず、こうした様相から階層性が読み取れるかを問題とする。「周溝持建物」からなる集落と竪穴建物からなる集落の性格の違いが、両者は階層的には大きな隔たりがないとすると、具体的にどのような差異にもとづくものなのかを、建物、土器、玉作り、木器生産から、低地遺跡の性格を考える。
低地遺跡のうち、「周溝持建物」からなる集落は、その性格として、外来的な要素の移入を受ける港湾的な性格と、新田開発の基地の機能が考えられ、様々な系譜の人々が住み、行きかうような様相は「市」のような様相を髣髴させるとする。そして在来集落から人々を拠出させて新しい集落を形成し、新田開発を行ったと見る。その背後に首長の存在を予想する。さらに、低地遺跡における二つの集落である、「周溝持建物」の集落と竪穴建物の集落を比較すると、後者に優位性が認められるというこれまでの分析から、竪穴建物からなる集落は、首長居宅よりより下位の階層となり、「周溝持建物」からなる集落はさらに下位の一般的な集落であるとする。これは階層差とともに機能差をも示している。
首長との関係では、低地開発、物流と土器、玉類、木器の生産、多方面に渡る生産の掌握が古墳造営の原動力となったとみる。こうした新たな社会構造の形成に関しては、集落の構成を可能にする社会的な存在として、在地社会の中に、首長の存在が要請されたと考えられる。そのために、低地遺跡のみではなく、台地の遺跡をも含めた社会の構造を読み解く必要があると主張する。
以上から、福田は関東地方の古墳時代の開始にあたって、以下のようなシナリオを描く。まず、低地開発を目的とした新しい集落の形成のために、地域首長の存在が社会的に要請された。この低地開発で力を蓄えた首長は、台地、低地の2種類の集落と首長居宅を結ぶネットワークを構成した。そこには階層差や機能差がある社会が構築されていた。そして、関東地方の古墳時代の開始に当たっては、社会ネットワークの構築が大きな鍵となっていたと指摘する。こうした、社会的な分業システムの確立が関東の古墳時代社会の開始とみるために、それ以前の弥生時代の分業システムと首長の関係を比較する。そのポイントとして、集落の階層のあり方を検討する。
そこで、木製品の分析から東海地方の首長の出現をモデル化した樋上昇氏の論考を参考とする。樋上氏の古墳時代初頭の階層性モデルによると、「一般集落b」、「一般集落a」、「首長居宅」の3つのランクがあるとする。福田氏は東海地方と比較すると、関東地方には竪穴住居のみからなる「一般集落b」は存在するが、中間の層の掘立柱建物と竪穴住居からなる「一般集落a」が欠落するという。この差が東海地方と関東地方の大きな違いである。一方、関東地方では周溝持建物からなる集落、竪穴住居のみからなる集落という違いがあり、後者に「優位性」が認められるが、「周溝持建物」と竪穴住居両者からなる集落も存在する。福田氏はこうした違いを階層的な格差までには至っていないとみる。したがって、近畿地方から東海地方西部までは、掘立柱建物と竪穴建物によって集落間の階層的格差が示されるのに対し、関東地方では竪穴建物と周溝持建物という建物構成からなっていることから、関東地方では両者は階層的格差というよりも、社会的な性格・機能が異なる集落が、首長居宅の下位に展開する社会であったとする。こうした、竪穴建物と周溝持建物からなる一般集落を福田氏は「関東型一般集落」と呼称する。
この「関東型一般集落」が展開する社会はどのように形成されたのかについて、福田氏は以下のように答える。それは、地域社会が古墳時代社会に移行していく中で、在地社会の新しい社会体制の安定化の方法が、西日本のそれとは大きく異なっていたことに起因するという。地域首長の地域経営の方法が全く異なると言い換えることもできるという。
関東地方の地域首長は、外来系建物や外来系土器に代表される外来系の技術をもつ集団を、在来社会の枠組みの中に取り込むことによって、そうした新来の技術を在来の技術と融合させて、新田開発などの社会事業を実現したことにあり、首長はそうして力を蓄え、出現期古墳の築造や古墳時代的な社会システムへの移行を成功させたとする。
さらに、このような社会の成立する要因として、性的分業と外婚集団による外婚モデルを示す。土器=女性、建物=男性という前提に立ち、集落内の建物の構成種類や土器の模倣ランクから、在来集団と外来集団の男女の婚姻の組み合わせができると主張する。
こうした組み合わせの結果、「外来集団、あるいは外来者は、在地集団と親族関係になり、そのもととなる外来系出自集団も擬制的な親族関係となる。その結果、階層的格差が決定的でない一般集落の形が生みだされるに至った」と考える。加えて、「こうした社会関係の再構築が、「関東型一般集落」の形を生みだし、古墳時代前期に一般的に関東地方で見出せる「在地化した外来系」文物を生みだした」とする。
「関東型一般集落」の姿が成立した背景として、編成される側の問題を指摘する。それは、地域を代表とする首長の立場が、地域経営の形に反映されているとする、松井一明氏の説を引用し、「関東地方を含む静岡県東部以東の社会は西側のそれと比べて、地域社会の分節集団や集落の力が強く、社会の要請によって登場した地域首長は、その意向を敏感に反映した」とする。関東地方の後期弥生社会は小地域ごとに土器型式が展開し、各型式が相互に関係性を保ちつつ、独立して展開する観が強く、松井の指摘する状況が想定される。さらに、前期古墳の分布を見ても、埼玉県東松山市・吉見町付近では前方後方墳や前方後方型墓が乱立する。こうした状況が、地域社会内部の首長権力のあり方を象徴しているとみる。つまり、前期古墳が造られるようになる一方、在地社会は弥生時代以来の社会状況に応じた地域型の古墳時代を開始したとする。これが、関東地方の古墳時代への変革の特徴だと結論する。
次に、評者の検討を行いたいが、既に紙数が過ぎている。いくつかの点を指摘するに留めたい。1.新稿のいくつかの章にやや粗い表現や文意の通りにくい部分があるのはやや不満がある。2.章立てについては、第6章3節の「関東地方における「周溝」研究の経緯と課題」は第2章として、独立させた方が分かり易かったのではなかろうか。3.低地遺跡の特徴を際立たせるためには、台地・丘陵部の集落の検討が必須である。その検討が少ないことが残念だ。2.「東海型一般集落a」の特徴である、周溝を持たない掘立柱建物の分析がない点と、低地遺跡に特徴的な「井戸」の分析がないのは残念である。評者は「井戸」と「周溝持建物」と「掘立柱建物」はセット関係にあるのではと考えている。このセットが新しく登場する低地遺跡の集落を特徴づけると考えている。すでに、論考は用意されていると思う。期待したい。4.また、素朴な疑問ながら、「関東型一般集落」を抽出できるのであれば、「関東型首長居宅」が存在するのか否か、存在するのであればどのような構造なのかが知りたいところである。今回の分析対象が一般集落であるためかもしれないが、こうした点が明示されていないため、モデルとしての提示が不十分と思われる。モデル化するとともに典型例を示していただきたい。
以上のような不満はあるものの、扱った遺跡数、遺構数、遺物数は膨大に上り、検討した項目とそのデータも膨大である。そこから導き出された総合的な検討の結果は十分示せていると言える。福田氏が古墳そのものや土器や鏡といった、従来多くの研究者が取り上げてきた事例ではなく、全く新しい「周溝持建物」を切り口に、関東地方における古墳出現期の社会像を描き出したことは確かであり、その独自性は大いに評価できる。今後この内容をたたき台とし、各方面で大いに議論されることは確かであろう。こうした議論がこの時期の社会論を活発にすることは間違いない。刺激的な一書である。古墳時代の始まりに興味がある多くの研究者に本書の一読をお勧めする。また、出版不況のこの時代に、私家版ながらこの本の販売にあたり、新しい印刷・出版方法を開発し、本書の出版・発売に大きく関わった六一書房の挑戦に拍手を送りたい。
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低地遺跡からみた関東地方における古墳時代への変革
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第2節 旧入間川右岸
第3節 豊島馬場遺跡
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第2節 方形周溝墓と「周溝」の覆土・出土状況(2)
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