第36回 2017.03.15
東アジアと百済土器発行元: 同成社 2017/01 刊行
評者:猪熊兼勝 (京都橘大学名誉教授)
土田純子さんが、在韓して研究生活15年、素晴らしいお土産を持って帰国した。近年韓国考古学の研究は、若い研究者の活躍で目覚しい成果を上げているなか、百済地域の調査と遺跡、遺物の研究は著しく注目されている。なかでも、土田さんの研究は、ずば抜けた多作で、その内容とともに驚異的ですらあった。その背景には、在韓中の全てが百済研究に没頭できる恵まれた環境があった。国立忠南大学校の充実した考古学の教授陣のもと、百済研究の代表的な朴淳発教授から百済考古学の手ほどきを受け、日常的に百済土器に囲まれ研究を続けられたことである。その後、高麗大学校助教授として、韓国の学生に百済孝古学の教鞭をとってきた。そうした研究成果となった本書の原本『百済土器東アジア交又編年研究』(書景文化社)は、2015年、大韓民国学術院優秀学術図書に選定されたことでも分かる。まさに快挙であろう。本書は、韓国語に堪能な著者自らによる日本語版であるが、多くの点で、改訂され、日本の研究者にも分かりやすくしている。
日本の研究者が、韓国の専門書を読む時、困惑するのは、研究者によって、遺跡、遺物の年代観に微妙にバラツキがあり、日本の須恵器編年のような共通認識がない。本書では、この一見混乱しているように思える百済土器研究の実態を挙げ、丁寧に紹介している。読みながら「ああ、そうだったのか」と思うこともあった。須恵器の源流である百済土器に関心ある日本の研究者にとって、待ち望んだ好書である。本書では先学の業績を紹介し、問題点を上げ、根拠となる理由を記して、自説を述べている。内容が多岐にわたり、大部であるため、読者にお勧めしたいのは、まず、「終章 総括と百済編年の意義」を読んでから、「序文」と「各章」と進むのが良い。
とりあえず本書の概要を記してみよう。まず百済を明確にするため百済史を『百済本記』をもとに概略を記す。その上、百済人が製作、使用した三国時代の土器を「百済土器」と定義する。
第2章の「百済土器編年研究の現状と問題点」では、百済土器の研究史を概観する。百済土器の研究は藤澤一夫・小田富士雄の日本人による編年から始まるが、安承周の壺の計測的属性を基準とする編年は、以後「箱ひげ図」と呼ぶ韓国独得の土器概念図の原点となった。なかでも1980年以降、漢城時代のソウル夢村土城の調査に参加した朴淳発の成果は、初期百済の基準土器となっている。さらに風納土城のデーターが加わり、漢城時代の相対的編年として定着した。だが、編年において絶対年代の根拠は薄弱で、中国の陶磁器と共存する土器で実年代を決める方法をとっている。中国の陶磁器は貴重品のため伝世された陶磁器が絶対年代の根拠となりえるか、否か、論が分かれるが、陶磁器がソウルの都城において貴族階級の奢侈用品として実用されるものの、地方において有力者の身分を象徴する社会秩序の誇示に供したため伝世品の存在を想定している。これを編年研究まで議論を高めようとすると、百済と中国の遺跡間で土器と陶磁器が、互いの国で共伴する「交差年代」として検討することの必要性を強調する。当然のことであるが、新羅、加耶との併行関係を設定することで、逆に新羅、加耶土器の編年にも影響を与えたとした。
第3章の「百済土器の主要年代決定資料」は第2章の各論でもあるが、本研究の中核となる。特に中国陶磁器の年代と倭系遺物の編年を参考に倭須恵器と共伴した百済土器をそれぞれ仔細に論ずる。時間の経過に合せ中国陶磁器と金工品の変化が一致することを基に、中国陶磁器が百済土器年代決定の重要な要素とする。百済土器と併存した中国陶磁器の碗・四耳壺・鶏首壺・盤口壺・施釉陶磁器を器種ごとに相対的に編年して、そのモデルとした中国陶磁を併行することで各様相を考察している。そして日本出土百済土器に触れる。ここでは深鉢・長卵形土器・把手付鍋・甑・杯・高杯・三足土器・四足土器 短頸瓶・杯付瓶・把手付杯・広口頸首壺・甕などの相対編年を提示し、日本出土の百済土器、百済出土の倭系土器の交差年代で、より精度を高めようとする。
日本の研究者が、百済土器について、真っ先に思い浮かべるのは、杯に3本の脚を付けた三足土器である。日本で須恵器と云えば、普遍的に出土する杯が編年の基準土器となるが、百済地域でメルクマールにならないのは意外である。三足土器は高杯と同様、祭祀用としている。日本出土品は唯一佐賀県野田遺跡出土器で、漢城土器の特徴を持ち、5世紀、漢城陥落以前のものである。こうした日韓の土器編年により百済土器が倭国へ全機種が同時伝播したのではなく、器ごとに時期差があり、幾度かの交流のなか倭国へ伝来があった。この成果の上に、百済出土の新羅・加耶土器、新羅・加耶出土の百済土器との交差年代についてふれる。当然、交差年代は土器だけで論を進めるのではない。そのため倭の甲冑・埴輪など韓国に伝わった考古遺物などが広範囲に及び、関連遺物から機種ごとに型式変化があるとする。なかでも、漢城期(2〜5世紀)・熊津期(5〜6世紀)の時代、中国、倭の遺物が百済領域内において、外来遺物の出土様相が異なっていたが、泗沘時期(6〜7世紀)になると都である扶余に集中し定型化する。これは国家体制が組織化したことを意味する。
第4章「百済における外来遺物の様相と併行関係」では百済の国家成立以前から出現した煮炊器、なかでも深鉢形土器・長卵形土器・甑を製作具痕の平行タタキ・格子タタキ紋に分ける。器形は口径・底部が小さいものから大きくなる傾向を指摘している。一方、深鉢は大型から小型へ時間とともに変化し、甑は把手が貼付け棒先から穿孔へ挿入となる。その器形の変化は地域によって異なる器形があったが、百済の領域拡大とともに格子タタキ紋は消滅する。その影響であろうか、倭国へ移住者の渡来地である大阪周辺の遺跡からも格子タタキ紋の甑が出土する。濃密な倭国との交流痕跡であろう。
日本の研究者にとって見慣れないグラフがある。土器の器種ごとに主要なポイントを測定した「箱ひげ図」のことで、その器種は壺・高杯・三足土器・杯を細分し編年の概念図となる。なかでも最も早く出現する直口広肩壺は漢城期の3世紀後半で、その盛行は4世紀後半が中心となり、高杯は泗沘期の7世紀に姿を消す。この頃になると、高句麗土器の影響を受け、鍔釜を思わせる鍔付土器が出現する。これは百済・高句麗両国の工人によるものであった。高句麗からの移住者の陰が見え隠れする。百済土器と隣接諸国の土器と併行関係を考察をしている。
第5章「考古資料から見た漢城期の百済の領域拡大過程」では、これまでのデーターを基に、東アジア的視点から漢城期の領域と関連づけた考察である。出土土器から見た領域の拡大過程は、徐々に広まるのではなく重点地を拠点とする拡張であった。日本の三角縁神獣鏡研究の拠点分配を連想する。
これまで著者は常に百済土器の立位置から、新羅・加耶の隣国の土器、中国の施秞陶磁器、倭国の須恵器を参考にしながら論を進めてきた。なかでも陶邑を中心とする日本の須恵器編年研究は、百済土器の実年代研究の大きな背景となっている。歴史的に須恵器は陶質土器として倭国に伝来し、その後、3世紀にわたる発展過程を見ると、初期須恵器生産に携った多くの工人たちは百済土器工人と同族であったことを想定する。
先述したように日本の須恵器研究は、和泉陶邑窯を主として製作技法による緻密な編年がある。ここで基本的には、窯の焼成面出土の複数の土器は同時期の遺物である。対して韓国の場合、宮廷や住居において生活面での使用場所の出土品が多く、一遺跡で複数期にわたる遺物がある。なかには伝世された陶磁器もあろう。今後、こうした課題に対処すべく、より緻密で高度な研究が求められよう。
全ての時代にわたり、何処からでも出土する土器の編年研究は、土器を生産し、使用した社会の過去の実証である。本書の表題でもある東アジアのなかの百済土器は、百済の国際的位置付である。こうした要望に、幾らか応えられたのではないか。土田さんは、韓国において、百済土器の第一線で活躍する新進気鋭の研究者として注目されてきた。今後、日本の須恵器研究者と交流のなか、両国の土器研究に大きな刺激を与えてくれよう。名実ともに日本と韓国の架け橋となってほしい。将来が楽しみだ。
日本の研究者が、韓国の専門書を読む時、困惑するのは、研究者によって、遺跡、遺物の年代観に微妙にバラツキがあり、日本の須恵器編年のような共通認識がない。本書では、この一見混乱しているように思える百済土器研究の実態を挙げ、丁寧に紹介している。読みながら「ああ、そうだったのか」と思うこともあった。須恵器の源流である百済土器に関心ある日本の研究者にとって、待ち望んだ好書である。本書では先学の業績を紹介し、問題点を上げ、根拠となる理由を記して、自説を述べている。内容が多岐にわたり、大部であるため、読者にお勧めしたいのは、まず、「終章 総括と百済編年の意義」を読んでから、「序文」と「各章」と進むのが良い。
とりあえず本書の概要を記してみよう。まず百済を明確にするため百済史を『百済本記』をもとに概略を記す。その上、百済人が製作、使用した三国時代の土器を「百済土器」と定義する。
第2章の「百済土器編年研究の現状と問題点」では、百済土器の研究史を概観する。百済土器の研究は藤澤一夫・小田富士雄の日本人による編年から始まるが、安承周の壺の計測的属性を基準とする編年は、以後「箱ひげ図」と呼ぶ韓国独得の土器概念図の原点となった。なかでも1980年以降、漢城時代のソウル夢村土城の調査に参加した朴淳発の成果は、初期百済の基準土器となっている。さらに風納土城のデーターが加わり、漢城時代の相対的編年として定着した。だが、編年において絶対年代の根拠は薄弱で、中国の陶磁器と共存する土器で実年代を決める方法をとっている。中国の陶磁器は貴重品のため伝世された陶磁器が絶対年代の根拠となりえるか、否か、論が分かれるが、陶磁器がソウルの都城において貴族階級の奢侈用品として実用されるものの、地方において有力者の身分を象徴する社会秩序の誇示に供したため伝世品の存在を想定している。これを編年研究まで議論を高めようとすると、百済と中国の遺跡間で土器と陶磁器が、互いの国で共伴する「交差年代」として検討することの必要性を強調する。当然のことであるが、新羅、加耶との併行関係を設定することで、逆に新羅、加耶土器の編年にも影響を与えたとした。
第3章の「百済土器の主要年代決定資料」は第2章の各論でもあるが、本研究の中核となる。特に中国陶磁器の年代と倭系遺物の編年を参考に倭須恵器と共伴した百済土器をそれぞれ仔細に論ずる。時間の経過に合せ中国陶磁器と金工品の変化が一致することを基に、中国陶磁器が百済土器年代決定の重要な要素とする。百済土器と併存した中国陶磁器の碗・四耳壺・鶏首壺・盤口壺・施釉陶磁器を器種ごとに相対的に編年して、そのモデルとした中国陶磁を併行することで各様相を考察している。そして日本出土百済土器に触れる。ここでは深鉢・長卵形土器・把手付鍋・甑・杯・高杯・三足土器・四足土器 短頸瓶・杯付瓶・把手付杯・広口頸首壺・甕などの相対編年を提示し、日本出土の百済土器、百済出土の倭系土器の交差年代で、より精度を高めようとする。
日本の研究者が、百済土器について、真っ先に思い浮かべるのは、杯に3本の脚を付けた三足土器である。日本で須恵器と云えば、普遍的に出土する杯が編年の基準土器となるが、百済地域でメルクマールにならないのは意外である。三足土器は高杯と同様、祭祀用としている。日本出土品は唯一佐賀県野田遺跡出土器で、漢城土器の特徴を持ち、5世紀、漢城陥落以前のものである。こうした日韓の土器編年により百済土器が倭国へ全機種が同時伝播したのではなく、器ごとに時期差があり、幾度かの交流のなか倭国へ伝来があった。この成果の上に、百済出土の新羅・加耶土器、新羅・加耶出土の百済土器との交差年代についてふれる。当然、交差年代は土器だけで論を進めるのではない。そのため倭の甲冑・埴輪など韓国に伝わった考古遺物などが広範囲に及び、関連遺物から機種ごとに型式変化があるとする。なかでも、漢城期(2〜5世紀)・熊津期(5〜6世紀)の時代、中国、倭の遺物が百済領域内において、外来遺物の出土様相が異なっていたが、泗沘時期(6〜7世紀)になると都である扶余に集中し定型化する。これは国家体制が組織化したことを意味する。
第4章「百済における外来遺物の様相と併行関係」では百済の国家成立以前から出現した煮炊器、なかでも深鉢形土器・長卵形土器・甑を製作具痕の平行タタキ・格子タタキ紋に分ける。器形は口径・底部が小さいものから大きくなる傾向を指摘している。一方、深鉢は大型から小型へ時間とともに変化し、甑は把手が貼付け棒先から穿孔へ挿入となる。その器形の変化は地域によって異なる器形があったが、百済の領域拡大とともに格子タタキ紋は消滅する。その影響であろうか、倭国へ移住者の渡来地である大阪周辺の遺跡からも格子タタキ紋の甑が出土する。濃密な倭国との交流痕跡であろう。
日本の研究者にとって見慣れないグラフがある。土器の器種ごとに主要なポイントを測定した「箱ひげ図」のことで、その器種は壺・高杯・三足土器・杯を細分し編年の概念図となる。なかでも最も早く出現する直口広肩壺は漢城期の3世紀後半で、その盛行は4世紀後半が中心となり、高杯は泗沘期の7世紀に姿を消す。この頃になると、高句麗土器の影響を受け、鍔釜を思わせる鍔付土器が出現する。これは百済・高句麗両国の工人によるものであった。高句麗からの移住者の陰が見え隠れする。百済土器と隣接諸国の土器と併行関係を考察をしている。
第5章「考古資料から見た漢城期の百済の領域拡大過程」では、これまでのデーターを基に、東アジア的視点から漢城期の領域と関連づけた考察である。出土土器から見た領域の拡大過程は、徐々に広まるのではなく重点地を拠点とする拡張であった。日本の三角縁神獣鏡研究の拠点分配を連想する。
これまで著者は常に百済土器の立位置から、新羅・加耶の隣国の土器、中国の施秞陶磁器、倭国の須恵器を参考にしながら論を進めてきた。なかでも陶邑を中心とする日本の須恵器編年研究は、百済土器の実年代研究の大きな背景となっている。歴史的に須恵器は陶質土器として倭国に伝来し、その後、3世紀にわたる発展過程を見ると、初期須恵器生産に携った多くの工人たちは百済土器工人と同族であったことを想定する。
先述したように日本の須恵器研究は、和泉陶邑窯を主として製作技法による緻密な編年がある。ここで基本的には、窯の焼成面出土の複数の土器は同時期の遺物である。対して韓国の場合、宮廷や住居において生活面での使用場所の出土品が多く、一遺跡で複数期にわたる遺物がある。なかには伝世された陶磁器もあろう。今後、こうした課題に対処すべく、より緻密で高度な研究が求められよう。
全ての時代にわたり、何処からでも出土する土器の編年研究は、土器を生産し、使用した社会の過去の実証である。本書の表題でもある東アジアのなかの百済土器は、百済の国際的位置付である。こうした要望に、幾らか応えられたのではないか。土田さんは、韓国において、百済土器の第一線で活躍する新進気鋭の研究者として注目されてきた。今後、日本の須恵器研究者と交流のなか、両国の土器研究に大きな刺激を与えてくれよう。名実ともに日本と韓国の架け橋となってほしい。将来が楽しみだ。